第七話






傷は癒えるだろう

けれど 消えない痕も

悪いものじゃない









サダルが泣いている。その隣には心配そうな表情をしたサルメが控えている。私は彼らに声をかけた。
だがそれは声にならず、空気の抜ける音がひゅうっと鳴っただけだった。サダルの瞳が私を映す。そこに映る私は恐ろしく冷たい顔をしている。謝罪の言葉はやはり音にならない。諦めたように首を振ってサダルは立ち上がる。
去り行く背中をサルメが押す。私は走って追いかけたが、距離は離れるばかりだった。どんなに足を動かしてもこの場所から一歩も動けない。私の駆ける音は私にしか聞こえていないようだった。彼らはやがて光に消える。足がどんどん重たくなる。重力は増し、足音は大きく響く。――あぁ、うるさい。










「オウス、外に出てきて」


私を呼ぶ声に意識が現実に引き戻された。
朝……? いや、夕方だ。昨晩は眠れなくて結局朝まで酒を飲んでいた。ちっとも酔えなくて目は冴えていたはずだが、いつの間にか眠っていたらしい。無造作に置かれた徳利の影が暗闇を作り、杯は窓に向けて橙を光らせていた。
太鼓の音が大きく響いている。人の声、奏でる唄がその合間に聞こえる。


「オウス!早く」


再び呼ばれて私は反射的に体を起こした。その声があまりに聞きなれたもので、過去に幾度となく私を穏やかに眠りから起こしたその声だったものだから、時が戻ったような錯覚を起こした。だが、そんなことはありえない。これは現実だろうか?
サダルの姿は見えない。外から呼んでいるようだ。だが確かにこの声は彼のものだ。

どくどくと体が脈打つ。彼があんな自然に私の名を呼ぶなど、ありえないのだ。一気に眠気から醒めた頭を右手で押さえて、私は恐る恐る外に出た。


最初に目に入ったのは高く上る炎。人々がその火を取り囲んで思い思いに踊っている。両脇には大きな太鼓。黒く日焼けした上裸の男が一心不乱に太鼓を打ち鳴らす。低く響く太鼓の音と、雑音のような人の声が、まるで別世界の音のように耳の奥の方で反響する。海に映る夕日はきらきらと輝き、低く流れる雲は赤く染められていた。

突如として目の前に現れたその光景を呆然と見つめていた私の背中に声がかけられた。


「今日は、お祭りなんです」

「……サダル」

「何がなんだかわからないって顔してますよ」


そういってサダルは声を抑えてくすくすと笑った。風で顔にかかった髪をかきあげた彼の表情はどこか吹っ切れたように晴れやかだった。
流れる髪も、笑みをつくるふっくらとした唇も、細められた目を縁取る長い睫も、今つくられたばかりのように瑞々しく綺麗だった。


「食べ物もありますよ。朝から食べていないでしょう。さっきね、サルメが大きなあわびを獲ってきたんですよ」


そう言ってサダルは握りこぶし二個分くらいに手を広げてその大きさを示した。「まだやってる」と彼が指で示す先にはサルメが村人と一緒に岩礁の上に立ち何やら笑い合っている姿が見えた。


「私は……」

「あっちに行きませんか。私も赤米をたいたりして、手伝ったんですよ」


炎を取り囲む人ごみに小走りで向かっていき、振り返ってサダルは手招きした。

一体サダルは何を考えているのだろう。なぜあんなに楽しそうなのだろう。彼を駆り立てているものは、なんだ?

踏み出すことを躊躇する足を無理やり前に進ませれば、サダルはふっと笑って走っていった。


彼はあんなにも強かったのだろうか。サダルの背に流れ落ちる黒髪が風に遊ばれている様を見ながら、ぼんやりと思った。溌剌とした後姿を眩しく思う。彼を追い詰めたのは私なのに。


バシャン、と音がして、その方向を見るとサルメが海に飛び込んだところだった。飛沫が夕日に溶けて橙の光を散らした。
そういえば、今日はサルメとサダルは共に行動をしていないようだ。四六始終一緒にいるということは普通ならば考えがたいことだが、事実、彼らはそうだった。互いに常に目に見える場所にいて、お互いを確認しあっていた印象がある。
彼らが別々に行動しているのはどうにも不思議な心地がした。

のろのろと歩いていた私のもとへサダルが戻ってきた。貝やら米やらを乗せた大きな葉を、少しだけ持ち上げて私に見せた。


「座りましょう」


サダルの促すままに、人々の喧騒から少しだけ離れた小高い丘のようになったところに腰を下ろす。途端に冷たい潮風が流れてきて、私の体を震わせた。太鼓の音も遠くなった。
過ぎ去った過去の情景のように響く音、踊る人。水にゆれる海草のように棚引く女の腕。少し視点が高くなっただけで世界ががらりと変わる。




それから我々は暫らく黙って、サダルの持ってきた食事をつまんだり海を眺めたりしていた。時々サダルは唇に触れながら下の人々に合わせて歌を口ずさんでいたりした。極自然な動作だったが、やはりそんなサダルは今までに見たことがなかったし、どこか無理をしているようでもあった。

なぜ彼が何も気に病むことがないかのように振舞うのか。
簡単なことだ。私のためだ。私に罪の意識を感じさせたくないのだ。
サダルはいつもそうだ。


サダルが好きだった。
彼が欲しかった。だがその気持ちはヒメに対する裏切りだ。わかっていた。私の中で相反しあっていたのは、ヒメに対するどうしようもない後ろめたさと、サダルに対する欲情。
そしてヒメが死んで、彼女に対する後ろめたさは永久的に私に根付いてしまった。

彼女はもういないのだ。私が何をしようと彼女には抗議する口も悲しむ術もないのだ。そして彼女が海に身を投げたのは、私のためだった。そんな彼女に私は一体何ができる?
死とは、完全で絶大だった。


……つまり、そういうことだ。私は彼の気持ちなど微塵にも考えていなかった。サルメに言われるまで私はまるで見えなかったのだ。
要するに、サダルの気持ちはどうなる、と。ヒメだけではない、と。

そこで私はまさに初めてサダルを想った。私の愛するサダルではなく、私を愛するサダルのことを。
自分のしたことはわかっているつもりだった。叫びもせず、泣きもせず、拒絶もせず、ただ黙ってサダルは私を受け入れた。だが、私が彼につけた傷がどれだけ深いものか、私には想像できなかった。できなかったのだ。考えればそれが底無しに深く、恐ろしいものだと感じたからだ。